「受験」指導の中で垣間見た、日本とベトナムの進路指導
第一回日本ベトナム教育セミナー論文集(2002.5)より

陣内 努

1.       はじめに

私は、日本の予備校と呼ばれる学校の教師である。予備校とは、学校教育法に基づいて設置されている学校もあるが、言うまでもなく公教育の場ではない。予備校は主に上級の学校に進学するための入学試験を突破するために、学力を向上させることを目的に設置されている。また、大学受験に失敗した受験生が、翌年の受験準備のために在籍しているケースもあり、「浪人生」と呼ばれている。
 現在、日本は少子化傾向が進み、高校入試、大学入試は決して難しいものではなくなってきている。予備校の存在価値がなくなりつつあるという考え方もできるが、少子化が進み受験生が減っても、競争がなくなることはあり得ないし、人気のある学校に進学するためにはそれ相応の努力が必要であり、予備校の存在価値は、まだまだ大きいものである。
 この予備校という場で、私は日本人の学生と、ベトナム人の学生を全く同じ条件で指導してきた経験があり、彼ら彼女らに対する指導経験の中から、日本とベトナムの中等教育の違い、或いは共通点を感じることも多い。今回は私の指導経験を踏まえて、日本とベトナムの教育問題の接点について考えてみたい。

2.       日本の中学生、高校生に対する進路指導

中学校と高校における卒業時の進路選択は、全く質が異なるものである。義務教育である中学を卒業して高校へ進学することは、個人の意思によって決定されるものであり、決して義務ではない。しかし、高校への進学率が90%をはるかに超え、ほぼ100%に近い現在の日本社会の中で、誰もが高校進学を当たり前のように捉えており、そのことがかえって目的意識もないまま進学してしまうことにつながっている。これは、現在の日本で大きな問題となっている「無気力」な高校生を生んでいる大きな原因である。私の予備校に通って来る生徒も、残念ながら中学3年生の段階で将来自分が就きたい職業を持っている生徒はまずいない。仮に持っていても、親の職業を継ぐとか、「ただ何となく憧れている」という理由がほとんどである。また、その職業に就くためにどのように進路を選んでいくのか、高校へ、大学へ進学するべきなのか、それとも就職するべきなのか。どんな資格が必要なのか、知らないし、知ろうともしない生徒が非常に多い。大げさな話ではなく、これは事実である。

将来の目標なり、理想を描くことができていない、つまり夢を持っていない生徒たちが、何かに対して一生懸命取り組もうとするだろうか。中学を卒業する時に将来の進路に対する強い志望もなく高校に進学した場合、何を目標に生活していくのか、学校に通うのか、迷ってしまうケースも非常に多い。このように、現在の日本の中学生の卒業時の進路選択は、必ずしも将来の目標なり志望なりを踏まえた形になっていないのが現実である。しかし、高校生活の3年間で様々なことを学び、自分の生き方について考えていくことができれば、仮に中学卒業時に「何となく」工業高校に進学したとしても、例えば国語の授業の中で文学作品に触れ、その面白さに触れる中で、大学で文学を学んでみたいと考え進学することも決して不可能ではない。ところが問題は、高校卒業時に進路選択を誤ると、次に進路を変更することは非常に困難なってしまう点である。例えば、医師になろうとして大学の医学部に進んだ学生が、ある時「自分はやはり弁護士になりたい」と考えたとき、もう一度大学を受験しなおすことは、莫大な費用と時間がかかってしまうという点である。つまり、高校卒業時の進路決定は一生の生き方を決める選択であり、高校教育における進路指導は、中等教育のまとめとして非常に大切な指導である。

では、現実はどうであろうか。5年程前のことであるが、高校3年生の女子生徒が進路の相談に来た。医者になることを希望して国立大学の医学部志望であったが、文系の学部に進路変更したいという。理由を尋ねると、家庭の事情で医学部には進学できないと言う。実は生後すぐに実母を亡くしており、継母の意向で大学進学のための学費を彼女のためには捻出できないと言う。こういった家庭の事情での進路変更というケースは少なからずあるのだが、彼女の場合、この事情を話し相談する相手がいないと言う。高校の担任の先生に相談しても、進路指導の先生に相談しても、家庭の事情を含めた進路相談となると、「自分の本当に進みたい進路を選びなさい」というだけで、彼女自身の言葉であるが「学校の先生は家のことを話すと逃げる」そうである。彼女に対して私は、事情を全て聞いてやり、その上で志望理由や学費のことなど、自分で解決できる範囲で努力をさせ、とにかく目標を見失わないように指導した。結果として学費の安い国立の看護学校にアルバイトをしながら通い、今は立派に看護師として社会に出て働いている。

彼女のように、将来への明確な希望を持ち、事情の許す範囲で実現できるように努力できる生徒はまだ幸せである。現実には、自己の将来を思い描くこともなく、内面では家庭の問題など様々な事情を抱えたままで中学を、高校を卒業していく生徒が余りにも多いのである。

確かに家庭の事情が生徒の問題に絡んだ場合、あくまでも当事者は本人であり保護者であるわけで、第三者である教師が口をはさめる要素は少ない。だが、せめて事情を聞き、アドバイスを送る程度の指導は、最低限必要なのではないか。最近、中学生、高校生から家庭の問題を含めた相談をよく受けるが、学校の先生は聞くだけで何も言ってくれないと相談を受けるケースが余りにも多いことは、非常に残念である。

中学、高校の課程を終え、無事に卒業させることだけが進路指導ではないと思う。教科指導、生活指導全般を通して、知識を与えるだけでなく、以下に生きていくか、そのためにどう行動するのかを自分で考えることができるように教えていく必要があると思う。勿論、生徒一人一人に対して真摯に取り組んでいる教師もいらっしゃるが、私のような予備校講師に相談してくる生徒が余りにも多いと言う事実から考えると、現在の日本の中等教育は、生徒を最大限信頼し、的確なアドバイスを送り、社会に向けて送り出すと言う点に於いて、非常に中途半端な状態であると言わざるを得ない。また、生徒の個人的な事情に対して、一緒に取り組もうと言う姿勢が薄いことが、生徒たちの教師に対する信頼感を失わせる原因となり、ひきこもり、登校拒否などの社会現象にも大きく影響しているように感じている。

3. 垣間見たベトナムの高校生に対する進路指導

 私は日本の看護学校に進学しようとするベトナム人学生を指導して、今年で6年になる。私が参加しているベトナム人看護婦養成支援事業は、1994年に策定され、ベトナム医療省、教育訓練省、労働・傷兵・社会省と日本の民間団体であるJFBネットワーク協同組合が、日本の厚生労働省の認可の元に共同で行っているプログラムである。高校を卒業し、医療省から推薦されたベトナムの学生に対し、ハノイで13ヶ月間の日本語教育を行い、同時に日本の看護専門学校等への受験指導、つまり英語、国語、数学、化学、小論文等の科目を日本語で学び、日本人と全く同じ条件で受験して留学しようとするプログラムである。3年から4年間の留学の後、4年間日本の医療機関で研修を受け、帰国後は医療省の管轄下で指導者的な役割を果たすことが期待されている。現在、日本の大学、短大、看護専門学校に32名が留学しており、既に看護師国家試験に合格した12名が研修生活に入っている。

 私は、彼女たちに対する受験指導という側面からの国語、小論文、面接試験、志望理由書などの作成の指導を担当している。現在日本では少子高齢化、疾病構造の変化、医療技術の高度化といった社会的ニーズの中で、看護系、医療系の志望者が増加し、看護専門学校といえども、志願者倍率が高く、入学試験は非常に難しくなっている。大学の入試レベルよりもはるかに高い学力レベルが求められている学校も決して少なくない。そんな中で、彼女たちの、特に語学力、数学、化学の力は非常に高いレベルであり、僅か13ヶ月の指導で日本語能力検定試験2級、1級の合格実績は80%を超えている。日本国内以外の日本語学校でこれだけの合格率を出している学校は皆無であり、彼女たちの語学習得能力の高さを証明している。また、看護専門学校などへの合格率も、ほぼ100%である。しかし、彼女たちは決してエリートではない。ハノイ市内、ハノイ近郊を中心とした地域の出身者が多く、続いてハイフォンなど北部の周辺都市が多く、南部出身者は現在のところいない。何れもハノイやハイフォンの医科大学、薬科大学、師範大学の生物学科などの入学試験に「失敗した学生」である。実は、当初から日本に留学して看護学を学びたい、あるいは看護婦になりたいと言う強い希望を持って参加している学生は皆無である。

彼女たちの受験を指導してきた経験から、いくつか述べてみたいと思う。

 日本の高校生が、特に将来の就職なり、人生設計を考えて高校卒業時の進路を決めていく姿勢が年々薄れている点については既に述べた。実はこの、日本の高校生たちの「無気力症候群」が、実はベトナムの高校生にも見られるのではないかと考える。

 私が初めて彼女たちと接したのは1997年のことで、支援事業の2期生たちである。「なぜ日本の看護学校で学びたいのか」という問いかけに対して、示し合わせたかのように「国に貢献したい」という言葉が返ってきた。「なぜ看護を学びたいか」という問いかけに対しては、「ベトナムの医療は、戦争など様々な理由で遅れている。先進国の技術と、看護の心を学びたい」という明確な答えが返ってきた。そして、入学式や卒業式にはアオザイを身につけて出席していた。(彼女たちは、昨年の国家試験に合格して、既に研修に入っている)ところが、2000年に受験した4期生あたりから、明らかに様子が変わってきている。「なぜ看護を学びたいか」という質問には「本当は医者になりたかったのだが、ハノイ医科大学の試験に失敗して、医療省に勧められたから」とほぼ全員が答え、「なぜ日本の看護学校で学びたいのか」という問いかけに対しては、「日本語を勉強して外国で生活するチャンスだと思ったから」という、非常に現実的な答えが返ってくる。もちろん、1、2期生、3期生の学生たちも事情は同じであっただろう。しかし、その現実を踏まえて、少なくとも自己の現状と将来性を再認識して前向きに取り組もうとする姿勢は、3期生までのほうが明らかに強かった。仮にそれが本音ではなく、我々外国人にたいする表向きの態度であったとしても、本音と建前を冷静に使い分ける判断力、臨機応変さがあった。今春、6期生7名が来日し、全員が看護学校に進学したが、アオザイを持って来なかった学生が3人もいた。

日本では、20年程前に「新人類」という言葉が流行った。ちょうど私が高校を卒業するころ、理解し難い言動を取る高校生、大学生を指して大人たちが使った言葉であるが、その「新人類」の私から見ても、彼女たちは新人類なのだなあと思う。

 ここ数年のベトナム人学生の急激な変化は、何が原因なのだろうか。経済の急成長も勿論一つの原因ではあろうが、中等教育、特に国語教育の中に何か変化があったのではないかと私は考えているが、どうであろうか。

 例えば、日本の看護学校入試では「詩」の読解問題がよく出される。これは、作者の心情を把握する力を試す問題であり、出す側の意図としては看護師として「患者の心情把握」能力を問うているのである。現在、日本の国語教育の中で、詩歌や古典(和歌や漢詩の読解)の指導は軽視されがちであり、日本人受験生も苦手としている分野である。ところが、ベトナム人受験生は、日本人以上に詩の読解が苦手である。ほとんどの学生が白紙のまま答案用紙を提出してしまう。日本語の成績がよい学生、国語の評論文読解が得意な学生でも同じである。このことは、ここ数年の、私の最大の疑問だったのであるが、今年になって学生たちと話していて、ようやく謎が解けた。つまり、日本の国語教育では詩の内容、つまり作者の心情を、文字、語句から「読み取る」ことを学ぶのであるが、ベトナムの国語の授業では詩の内容を先生が「説明」してくれて、それに対して自分がどのように感じたかがテストされると言うのである。だから、初めて読んだ詩の内容はわからないし、設問にも答えられないと言うのである。

ここでベトナムの国語教育の是非を問う気持ちはない。しかし、「説明してくれないとわからない」言い換えると「自分で考えようとしない」姿勢は日本の学生と同じではないか。私は決して国粋主義者ではないが、国に貢献する、社会に貢献すると言う献身的なものの考え方、真摯に学ぼうとする姿勢は、我々日本人の若者が忘れかけていたものである。それだけに指導の中で彼女たちの言動を新鮮に感じ、胸を打たれる場面も多く経験した。しかし、ここ数年の「新人類世代の彼女たち」の言動は、残念ながら日本の「無気力症候群」の学生たちとそっくりである。

思うに、彼女たちが受けてきた教育が、余りにも一方通行なものになってしまっているのではないだろうか。彼女たちは教えられたことを覚えようとする努力、その能力に関しては日本人に真似ができないのではないかと思うぐらい優秀である。しかし、教えられた具体的な事例を、抽象化する作業は苦手である。これはある大学の医学部保健学科看護学専攻に進学している学生の言であるが「レポートは書けるけど、論文は書けない」という。要するに自分で考え、まとめていく努力ができない。しかし、能力的にできないのではなく、どうやら、やらないように見受けられる。夏休みなどの長期の休暇期間、彼女たちは病院で研修を受ける。これは学校のカリキュラムではなく、支援事業のプログラムの一つであり、日本の病院や看護に少しでも慣れてもらおうとする意図がある。しかし、彼女たちは、「日本人の学生ならアルバイトとして給料をもらえるのに、私たちはなぜ、ただ働きをさせられるのですか」といい、様々な理由を作っては研修を休もうとする。勿論、一生懸命に取り組む学生も少なくはないのだが、どうしても日本の無気力大学生たちの姿とダブってしまうのである。「医科大学受験に失敗したから参加する」「本当は看護に興味はないが、日本語を学べて奨学金をもらえるから参加する」以外の学生が、なかなか現れない現状を考えると、どうもベトナムの進路指導の問題も、日本と同じように、中途半端なのではないのだろうかと感じることがある。

もう少し、一元的なものの見方だけでなく、広い視野で物を見ること、物事を考えることができないだろうか。また、視野を拡げていくような指導ができないだろうか。そして、社会には様々な問題があり、様々なものの考え方があり、取捨選択していく力が必要であること。自分で理論構築しながら結論を導き出し、実行していく姿勢が必要であることを教えていく必要があるように感じる。例え最終的に無駄になったとしても、それを許容し、糧としていくことによって、自分がより一層成長できると言うことを教えてあげる必要があるのではなかろうか。

4.日本とベトナムの中等教育に求められているもの

 私は、入学試験に必要な志望理由書を作っていく指導に於いて、日本の学生に対しても、ベトナムの学生に対しても、全く同じテキストを使い、全く同じ内容で指導している。
 日本のある病院で看護体験に参加したことがあるが、その経験に基づいて看護師の仕事を説明する。どのような職場で、どのような役割を果たしているのかを説明し、そこではじめて「あなたはどのような看護師になりたいのですか」と問うのである。ベトナムの学生に対しても、バクマイ病院を見学し、日本の病院の現状との違いを話し、何が将来の指導者となる彼女たちに求められているのか、そのために日本で何を学ぶのかを、考えさせるのである。例えばベトナムの人口動態を調べてみれば、少子高齢化の方向に進むのは明らかであり、超高齢社会へ急速に向う日本で学ぶことの意義を見出させれば、立派な志望理由書を書くことができるのである。
 しかし、こういった、言わば社会の仕組みなり、変化なり、現実の問題を提起し、自己の将来を見据えて、   教育をしていくのが中等教育の本来の有り様なのではなかろうか。言い換えれば、進路指導に活かしていくべきことなのではなかろうか。学問とは、言うまでもなく入学試験で合格する得点を得るために学ぶものではなく、人間はいかに生きるかを考える手段であるべきだと私は考える。どこの大学に進学したかが問題なのではなく、いかに自分の目標に向かって、何を学んでいくか。その最善の道を見つけていくことが進路指導であり、中等教育の一つの帰着点であると私は考える。

 以上、日本とベトナム、両国の中等教育から高等教育の狭間の指導を受け持つ私の経験の中から感じていたことを述べた。私が勤める予備校とは、本来、今私が否定した「入学試験で合格する得点を得る手段」として存在しているものである。他に、存在価値はなかったものである。ところが、ここ10年ほどで大きく様変わりし、いかに生きていくのか、将来どんな職業につきたいのか、共に悩み、考えつつ進路を決めていきながら、同時に少しでも生徒たちの志望が実現するように入学試験の得点力を上げていくという、言わば高校教育が本来行うべき部分を、予備校が担っていることは事実である。これは、私たちが中等教育に取って代わろうとしているのではなく、生徒たちが求めているニーズから、現在の中等教育の方向性が離れているからではないだろうか。

 今回のセミナーで、日本、ベトナムの中等教育における様々な問題が報告される。その中で、卒業と言う教育の結果が現れる、生徒の「進路」を見据えた討議をみなさんとしてみたいと考え、敢えて意見を述べさせていただいた。